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至聖三者聖セルギイ大修道院はロシアで最大の修道院です。ロシアで最も尊敬される聖人、ラドネジの聖セルギイによって創立されました。

セルギイは1314年ロストフの貴族の家に生まれバルテロマイと名付けられ、敬虔な両親のもとで何一つ不自由なく育てられました。幼いころから神の恩寵の働きを感じ、神と聖人たちを愛し、心を罪から清め、絶えず神に祈り、労働し、休息には聖書を読んで過ごしました。

修道院の始まり

両親の永眠(1340年頃)後、弟のペートルに財産を譲り、20代の青年セルギイは兄ステファンとともにマーカヴェッツ山の森に移り住み、修道の庵と小さな会堂を建て、至聖三者(三位一体)の神に捧げました。至聖三者聖セルギイ大修道院の始まりです。

しかし兄ステファンは森での厳しい生活に耐えきれず、まもなくモスクワの整備のよい修道院に移ってしまいました。セルギイはひとりになりました。しかし、たましいは神と聖人たちとともあり、動物たちとも親しく暮らしました。心はますます謙遜で清らかになり、神のお造りになった全ての物への深い憐れみにあふれました。

セルギイの聖なる生活の噂はロシア中に広がり、神に従って正しく生きることを求める人々の心を引きつけ、彼を慕う人々が次々とやってきました。謙遜なセルギイは、自分には人を教えることなどできないから、あらゆる善の源である至聖三者、父と子と聖神(聖霊)、三位一体の神を求めなさいと話しました。

人間は神から自らを切り離した結果、身勝手な欲望のうちに互いにも切り離され、孤独に陥ったとキリスト教は教えます。愛によって一致している至聖三者を観想して、希望をとりもどす必要がありました。

セルギイは神の子イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)を信じ、キリストのために生きました。キリストは神の偉大なる奥義、愛の奥義を証しました。

セルギイは「克肖者」という尊称で呼ばれます。克肖者とは神の肖(似姿)となった聖人です。セルギイはキリストの戒めを追求し、キリストの地上での生涯に倣って行動しました。すべての面でハリストスに似たものとなり、神の肖(似姿)となりました。

セルギイは至聖三者の愛の姿をモデルに修道院の生活を整えました。セルギイに倣うことで、その弟子たちも神に似たものに高められ、弟子たちからも多くの克肖なる聖人が輩出しました。セルギイが祝福し、弟子たちは各地に40以上もの修道院を設立しました。

克肖者セルギイはロシアの人々が長い間待ち望んだ生きた模範となり、ロシア民族に道徳的規範を与えました。ロシアの森は修道士が自らのたましいを天の善行で飾る修道の町へと変容してゆきました。

最初の数十年間、セルギイの修道共同体は貧しく、重労働を余儀なくされました。弟子のエピファニイは「周囲には村も農家もなく、すべて森だった」「克肖者、我等の神父セルギイが耐え抜いた窮乏は筆舌に尽くしがたい。パンも粉も小麦も底をつき、油も塩も、食べ物は全くないこともあった。ロウソクをつくる蝋もなく、白樺や松の松明で夜の祈りを行った。セルギイはどんな貧困、窮乏、不足をも堪え忍び、神の豊かな憐れみへの希望にあふれていた」と書き残しています。

セルギイは聖使徒ペトロのことばを実践しました。


あなたがたは力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちの主イイスス・ハリストスを知るようになるでしょう。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように一層努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。(ペトロの第2の手紙1章5-11節)


また聖使徒ヤコブの次の教訓も実行しました。

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。(ヤコブの手紙1章2-5節)


セルギイの忍耐

苦難を感謝して耐えると忍耐の徳が成長します。弟子のエピファニイはこんなエピソードも紹介しています。

ある時、修道院に食べ物が尽きてしまいました。セルギイは弟子たちに修道院に留まって忍耐強く神の憐れみを請うように命じました。3日も4日も何も食べずに過ごすことになりました。4日目の朝、飢えで疲れ切ったセルギイは弟子のダニイル長老の所へ行って、古い乾パンを分けてくださいと頼みました。無償でもらうことをよしとしないセルギイは、以前からダニイル長老が以前から修室に玄関を取り付けたいと言っていたのを思いだし、作業を始めました。朝から板や柱を削り、夕方までかかって完成しました。

仕事が終わると古い乾パンを受け取って、少し離れたところに座って、祈り食物を祝福し、食べ始めました。修道士の兄弟たちはセルギイの口からカビがほこりのようにもれているのを見て、「この人の忍耐たるやいかなるものだろう」と感嘆し合いました。

修道士の一部から不満が出たこともありました。神はひとりの慈善家を通して憐れみを与えました。その晩修道院の門に荷馬車いっぱいの食糧が届いたのです。すべての兄弟(ブラチア)は満腹し、神に感謝しました。神はセルギイの信仰を試し、試練によって彼の忍耐に栄光を与えました。

セルギイは弟子たちに信仰を教えただけではなく、父であり母であり、仕える者でもありました。「隣人を自分のように愛しなさい(マルコ12章31節)」という福音書の戒めを余すところなく実践しました。弟子たちのために修室を建て、水を運び、縫い物をし、パンを焼きました。何をするときも、常に祈り神に向かい合い、心に憤りや、侮辱、不平、その他の悪徳が起こるのを防ぎました。

毎夜セルギイは弟子たちの修室を巡り、彼等の様子に目を配りました。もしつまらない話をしているのに気づいたら、次の日たましいの救いについての話をさりげなく始め、その人を侮辱しないように穏やかにさとしました。

モンゴルからの解放

当時ロシアはモンゴルに征服され苦しんでいました。タタールのくびきです。国を治めるべきロシアの諸侯たちは兄弟でありながら、裏切りを繰り返していました。セルギイは全力で、キリスト教の教える犠牲的な愛の戒めを行いました。「人の子(イエス・キリスト)は仕えられるためにではなく仕えるためにきた。多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである(マルコによる福音書10章45節)」。セルギイは神と隣人への愛にあふれていました。人々はセルギイを慕い、全ロシアの守り手、神への執り成しをする者と信じました。

セルギイの祈りは神に届くと聞いて、モスクワ大公ドミートリイ(ドンスコイ)がやってきました。モンゴル軍(ママイ汗国)とクリコヴァ平原で戦うべきかどうか決断するためにセルギイの祝福を求めに来たのです。セルギイはドミートリイ大公に戦いの祝福を与え、勝利を予告し、軍隊の士気を高めました。

しかしドミートリイ軍はモンゴルの大軍が間近に迫ると、敵兵の数があまりに多いのを見て怖じ気づきました。この時、セルギイからの伝令が飛んできて「勇気をもって進め。神はなんじらに勝利を与える」と大声でよばわりました。

数においては敵がはるかに優勢だったにも拘らず、ロシア軍は勝利を収めることができました。ドミートリイ公は全ロシアの国民的指導者となりモスクワはロシアの中心となりました。この勝利がきっかけとなって、100年後「タタールのくびき」から解放され最強の正教国となりました。またセルギイの助言によって、兄弟の内紛が終わり、ロシアが一つの国にまとまりました。セルギイは決して乱れぬ平和な心と真の知恵によって、多くの人々を和解させることができました。

セルギイの名声はビザンティン帝国(東ローマ帝国)にまで伝わり、コンスタンチノープルの総主教から祝福が送られました。当時のビザンティンは世界有数の大国で、その総主教がロシアの一修道士に祝福を送るのは異例のことでした。総主教の助言に従って、セルギイは共住修道の規則を導入しました。共住修道とは至聖三者の愛の規範に従って共同体の仲間が完全に互いを信頼し合い、持ち物を完全に共有しあう修道生活です。

「わたしのものは全てあなたのもの、あなたのものはわたしのものです(ヨハネによる福音書17章10節)」。この理想はエルサレムの初代教会にあったものです。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イイススの復活を証し、皆、人びとから非常に好意を持たれていた(使徒言行録4章32-33節)」。

ロシア正教会の首長、府主教アレクシイは死期の近いのを感じ、セルギイに後継者となってくれるように頼みましたが、セルギイは名誉ある地位を辞し、キリストのための清貧と善行に励む一修道士として生きることを選びました。

白い鳥の奇跡

神は奇跡のしるしを与え、この森の小さな共同体が大いなる修道院になることを予告しました。

ある夜、祈祷の時、セルギイは誰かが彼の名を呼んでいるのを聞きました。祈り終えて窓を開けると、太陽よりも明るい光に照らされ、修道院内外の空に弧を描いて飛ぶおびただしい白い鳥が見えました。「御覧なさい、数多くの修道士たちが至聖三者の名のもとであなたから学ぶためにここに集うでしょう。あなたに倣う者となれば、この鳥たちのように増えるでしょう」と天から声が聞こえました。

予言は実現しました。セルギイがこの世を去った後も、多くの修道士たちがここに住み、彼等の多くは祈りと斎の苦行を修め、つぎつぎと修道共同体を築きました。また教会を治める主教となり、祖国のために命を捧げた者もありました。

人々はセルギイの不朽体(死後も朽ちることなく残った遺体)の前で祈りをささげ、セルギイに神へのとりなしを祈りました。やがてモスクワの貴族の多大な援助によって修道院は石造りに建て替えられ、豪華な装飾が施され、比類ない美しさをもった建築群となりました。祈りの共同体に秘められた霊的な完全さによって生み出されました。

シア革命後の苦難

共産革命が起こり、ほかのすべてのロシアの教会と同様、正教ロシアの心であった至聖三者聖セルギイ大修道院も厳しい迫害の嵐にさらされました。1919年新政権は修道院の閉鎖を決めました。教会の宝物は次々と没収されました。1922年には飢餓との戦いを口実として 150プード( 2482キロ)の銀製品が没収され、教会の建物はクラブや食堂や射的場として使用されました。火事も起こり、「鐘の王様」と呼ばれるロシア最大の鐘を始め、多くが破壊され、外観の美しさは損なわれ、大きな損害を被りました。

周辺にあるスキート(小修道院)は徹底的に破壊されました。ゲフシマニア・スキートは郡の執行委員会のソ連の労働者の宿舎となり、救世主ヴィファンスキー・スキートは人民の教育機関となりました。スキートの修道士たちは追い出され、逮捕された者もあります。

しかし神は教会を完全に破壊しつくすことをお許しになりませんでした。第二次世界大戦が始まり度重なる敗戦によってロシア人たちが動揺し始めると、スターリンは正教会に協力を要請してきました。1943年の 9月 4日にはクレムリンでスターリンと府主教セルギイ(ストラゴロドスキイ)の率いるロシア正教会の代表者との会談が行われました。この会談は教会生活の復興、聖職者養成のための神学校の再開、聖堂や修道院の返還の第一歩となりました。

1946年にモスクワ神学大学の建物が返還され、ウスペンスキー聖堂が開かれました。1945年にモスクワ及び全ロシアの総主教となったアレクシイ1世が至聖三者セルギイ大修道院の主管者に就任しました。かつて大修道院はロシアの民に光をもたらす燭台でした。アレクシイ1世は復興された大修道院が再びその役目を担うためにできる限りのことを行いました。さまざまな修道院の修道士たちはハリストスの光を心に抱いて、ここに集まってきて 復興に力を尽くしました。

1948年モスクワのノヴォデェヴィッチ修道院から至聖三者聖セ ルギイ大修道院にモスクワ神学校が返還されました。克肖者セル ギイの創設した共同体は少しずつ復活していきました。教会は復 興し、歴史のあるスキートやポドヴォリエ(分院)が修道院に返還さ れ、修道生活も復活し居住者の数も増えました、第二次世界大戦 後のソ連で、1990年以前に活動していた修道院の中では最大の ものとなり、神学教育の中心になり、信仰生活の砦となりました。

1991年ソ連崩壊後、ロシア教会の修道院や聖堂は急速に復興 されました。セルギイ大修道院でもポドヴォリエ(分院)やスキート (小修道院)が復興され、新しいスキートも作られました。現在、修道 士はスキートやポドヴォリエも含めると300人以上、大修道院 直属の修道士は200人です。