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至聖三者聖堂
現存する建築物の中で最古のものは至聖三者聖堂です。この聖堂はセルギイの最も親しい弟子で実の甥である克肖者ニーコンによって建てられました。ニーコンはセルギイが最初に小屋を建てた場所、かつ彼が埋葬された木造教会があった場所に新しい教会を建てました。

至聖三者聖堂は中世ロシア建築初期モスクワ様式(四角い躯体にタマネギ型または半球型クーポルと十字架を戴いた聖堂の形)の最高峰のひとつ です。ビザンチンの伝統とロシア独自の思想、詩的な性質、形象性、完璧をめざす志向性が融和しています。古いロシアの聖堂は音楽 のように美しく、各部が神学的な意味を もち、天の国をかたどります。

太陽の光を受けて輝く半円またはタマネギ型のクーポルはロ ウソクの炎のようです。キリストの再臨の時に実現されるとい う天のエルサレムの教会の形が現され、 聖書の啓示を反映しています。十字架と十字架を背負ったハリストス(キ リスト)を通して神のもとへのぼる信徒の熱い祈り、使徒たちのも とに降り「火の舌」のようにとどまった聖神(聖霊)を象徴しています(使徒言行録2:1-4)。

クリスチャンとはキリストの十字架を背負う者です。自分の十 字架を背負わない者はキリストにふさわしくありません(ルカによ る福音書14章27節、マタイによる福音書10章38節を参照)。十字 架は天と地を結ぶもの、救いをもたらすものです。この世は悪に満 ちていますが、十字架は自分の中と外に生じる全ての悪に対して戦 う力となります。主の戒め、すなわち心を尽くして神を愛すること、 隣人を愛すること(マルコによる福音書12章29-31節)に従うとき、主はともに戦い、ともに働いてくださいます。愛をもって自らの十字架を担うとき、神の恵みが与えられ、正しく祈り、神を思うことができます。そのとき、たましいの救いが完成されます。

至聖三者聖堂は黄金の兜をかぶったロシアの勇者の姿にも似ています。人間は神の似姿として創られました。神の家である聖堂は、神のために生涯をかけて戦う信徒を守る勇敢な戦士です。

イコン画家アンドレイ・ルブリョフ


至聖三者修道院のために描かれた中世ロシアのイコンはことばによらない神の真理の顕現とも言えます。それは聖堂建築など他の宗教芸術とともに神の国の福音を直接的体験的にその前に立つ人々に伝えます。

なかでも特別の位置をしめているのが克肖者アンドレイ・ルブリョフです。彼はもう一人の優れたイコン画家であるダニイル・チョールヌィと共に、至聖三者聖堂のイコンを描きました。正教のイコン表現の中でもっとも偉大な作品である「至聖三者のイコン(今はトレチャコフ美術館所蔵)」もこのとき描かれました。旧約聖書の太祖アブラハムの前に現れた三人の天使の話(創世記18章)に基づいて、アンドレイは線や色によって至聖三者がどのようにして人間を創造し、救うかという教義へ導きます。神の愛の世界と美が開かれます。互いに傾げた天使の頭は、聖書の教える犠牲的な愛を顕します。その独り子をお与えになったほどに、 「神は、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書3章16節)」。

人は至聖三者に象って創造されました。ハリストスは弟子たちに戒めました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネによる福音書15章12-13節)」。克肖者セルギイを称える聖堂にこのイコンが書かれたのは偶然ではありません。セルギイはその生涯において福音書のこの理想を実現しました。イコンには神の永遠性と完全性が象徴され、ハリストスによる人類の贖いという神の摂理が不変で完全なものであることを表しています。

アンドレイは愛と人の一致という偉大な道徳的理想をイコンに表現しました。その作品の前に立つ時、我々は永遠と出会います。罪深さ、肉によるもの、空しく不完全なものから解き放たれ、あたかも「彼の地」つまりこの世の外にある至上の世界で描かれ、来るべき神の国を証しているかのように見えます。司祭パウェル・フロレンスキイのことばを借りれば「ルブリョフのイコンがあるということ、それは神がいるということだ」。

使徒への聖神降臨聖堂

至聖三者聖堂の北東に、使徒たちに聖神(聖霊)が降臨したことを記念した聖堂があります。1476年にプスコフの職人によって建てられました。伝承によればこの教会は石造りの至聖三者聖堂が立て替えられた時に、古い木造の聖堂が移築された場所に建っているということです。ドームの下に美しく調和のとれた鐘楼があります。

修道院の城壁

1540年から50年ごろ木造の壁が石の壁に作り替えられました。雷帝と呼ばれたイワン4世(在位1533-1547)が壁の建設の作業

を監督し、ここで働く農民を納税義務から解放しました。1608年から10年の動乱時代にポーランドとリトアニアの三万人の軍隊によって十六か月にわたって包囲されましたが、強固な壁に守られた修道院は生神女マリアと克肖者セルギイの祈りに護られて持ちこたえることができました。このときの経験から修道院の壁はさらに強固になり、その高さは三倍にも増しました。

ウスペンスキー(生神女マリア就寝)大聖堂

修道院の中でひときわ目立つウスペンスキー聖堂(生神女マリア就寝聖堂)は、ロシア軍がカザン汗国に勝利したことを神に感謝して、イワン雷帝によって建てられました。カザン汗国は長年ロシアを圧迫していたキプチャク汗国の最後の汗国でした。モスクワのクレムリンのウスペンスキー聖堂をモデルにし、高さは1メートル高くなっています。聖堂の建設には二十六年という歳月が費やされ、1585年に竣工しました。

動乱やポーランド・リトアニアの侵攻のために、聖堂内はイコンが描かれないままになっていました。やっと1684年に35人のイコン画家によって聖堂のドームと壁がフレスコ画で飾られました。この作業は百日(一夏)で完成しました。

聖堂内に安置されている聖品としては、克肖者聖セルギイの棺、シベリアおよびアメリカに伝道し後にモスクワ府主教となった成聖者聖インノケンティと克肖者聖マキシム・グレークの不朽体(聖人の遺体またはその一部)が安置されています。

昔の修道士は自分の命が完全に神の御手の内にあることを忘れないために自分の棺を作り修室に置きました。死と神の審判を絶えず記憶することは、罪深い行いや思いを遠ざけ、心が空しい思いにかたむくのを防ぐのを助けます。棺は修道者にこの世の生活の短さを思い起こさせ、時間を浪費せず、一瞬一瞬を善いこと、価値のあること、つまり神を知ること、自分のたましいを美しく飾ること、隣人を助けることなどで満たすよう教えます。

克肖者セルギイは存命中に樫の木の棺を自分の手で造り自分の修室に置きました。棺に収められたセルギイの体は30年間地中にあり、1422年に墓が開かれると、棺の中には朽ちぬままの聖人の体、不朽体が発見されました。聖人が葬られる時に身に着けていた着物や靴も腐敗していませんでした(セルギイ修道院内博物館収蔵)。聖セルギイの不朽体は至聖三者聖堂に安置されています。

泉の上の小聖堂

就寝聖堂の西側にポーチが付いたのは18世紀末ですが、 1644 年にポーチの壁に損傷が見つかり、基礎を固めるために溝を掘っ たところ、その溝から清水が涌き出ました。ある日、眼病を患ってい た修道士パフヌーティーがこの水で目を洗ったところ病気がなお りました。逆に、修道院で働いていた男で、癒しの力など信じない とうそぶいた者は死んでしまいました。モスクワの総主教イオシフ(1642-1652年)も癒しを受けました。後に、奇跡の水の泉の上に小聖堂が築かれました。

聖ゾシマと聖サワティ聖堂

1635年から1637年にかけて極北ロシアのソロヴェツキー修道院を創設した奇跡者ゾシマとサワティの名で教会が建てられま した。八角錐のとがった屋根を載せた教会には病院も併設されま した。建設にあたったのはアレクサンドル(ブラントニコフ)で、至聖三者修道院では食料係を務めていましたが、出身がソロヴェツキー修道院だったのでこの名を選んだのでしょう。革命前この施設には高齢の修道士や体の弱い修道士たちが住んでいました。また1608年から10年にかけての修道院の攻防戦で負傷し、体が不自由になった人々も住んでいました。

トラペザ聖堂

セルギイの永眠後三百年を記念して、1686年から92年にかけて克肖者セルギイの名を冠したトラペザ聖堂が建設されました。トラペザとは食堂の意味で、建物の東側は教会として使われ、西側はダイニングルームとして使われた広い長方形の建物です。床面積は510平方メートルでロシア最大でした。これほど大きな空間のドームに支柱が一本もないのは当時の建築技術としては奇跡的なことでした。歴代の皇帝が修道院に巡礼に来たときは祭日の聖体礼儀後の昼食会が盛大に開かれました。

克肖者セルギイの至聖生神女顕現記念聖堂、または聖ミヘイの聖堂

1743年にトラペザ聖堂の隣、セルギイの最も親しい弟子の一人であったミヘイの墓の上に建てられた教会です。セルギイに至聖生神女(聖母マリア)が現れたことを記念しています。セルギイの時代、ロシアはモンゴルに征服されていました。モンゴルが襲来すると修道院も村も町も焼き滅ぼされました。セルギイは涙を流して自分の霊的な子供たちと修道院を救ってくれるように神に何度も祈りました。ある夜セルギイがミヘイとともに至聖なる処女マリアへの祈祷を歌っていた時、使徒ペートル(ペトロ)とイオアン(ヨハネ)に付き添われた生神女マリアが修室に現れました。マリアは自分がセルギイのいる場所を離れないこと、必要なものは全て与えること、セルギイの死後もこの修道院を覆い護ることを約束しました。

この幻は現実になりました。ロシアはこの後三回も恐ろしい襲撃に苦しめられました。17世紀にはポーランドとリトアニアによる攻撃とモスクワ支配、19世紀にはナポレオン率いるフランス軍によってモスクワはことごとく焼き尽くされましたが、敵の兵士は一人としてセルギイ大修道院の中に入ることはありませんでした。20世紀にはファシスト・ドイツ軍によってセルギエフ・ポサードも空爆されましたが、聖堂はすべて無事でした。修道院が神に護られている証拠です。


スモレンスクの生神女のイコン記念聖堂

スモレンスクの生神女のイコンを記念した小さな聖堂は以前調理場があった場所に建てられています。15世紀、調理場の建物の外側にスモレンスクの神の母の奇跡のイコンがありました。 1730年に修道院の誦経者で腕が曲がった人の夢の中にこのイコンが現れ、病気がなおりました。この奇跡を聞いた皇女アンナ・イワノヴナは、奇跡のイコンを称えて教会を立てるように命じました。調理場を改造した教会はすぐに老朽化し聖堂は崩れてしまいました。現聖堂は1746年から48年に A.G.ラズーモフスキィ伯爵の資金援助で建てられたものです。

鐘楼

1740年に建てられた鐘楼は、ロシアで最も高い鐘楼の一つです。鐘楼の高さは十字架を含めて 88メートルで、モスクワのクレムリン内のイワン雷帝の鐘楼よりも高いものです。1922年までに鐘楼に取り付けられた鐘の数は4 2個で、有名な「鐘の王様」という大鐘もありました。この鐘は1748年に修道院内で鋳造され、重さは約67トン以上あり、実際に使われた鐘としては最大のものでした。 1930年に革命政府によって取り外され破壊されました。

現在鐘楼には30以上の鐘がありますが、革命以前から残る鐘は13個しかありません。現在の「鐘の王様」は2004年に再び鋳造され、鐘楼に取り付けられ、72トンあります。

18世紀の初め北ロシアではスウェーデンとの緊張が高まっていました。ピョートル大帝は大砲鋳造のために、すべての修道院と教会に対し所有する鐘の四分の一を供出するようにとの命令を出しました。至聖三者修道院にも鐘の取り外しのために軍隊がやってきました。夜になって修道院は閉まっていたので翌朝行ってみると、最初に取り外す予定の鐘が消え失せていました。別の鐘を外そうとしましたが、ハンマーで叩いても鐘は落ちず壊れず、ゴーン、ゴーンと鳴り始めました。「鐘の音は三昼夜、昼となく夜となく絶え間なく鳴り響いた」と記録されています。結局軍隊は鐘を外すことができませんでした。後日、これらの鐘は自然に外れて転がり落ち、修道院の塀の外の池で発見されました。

記念碑のオベリスク

1792年、鐘楼の前にプラトン府主教によって記念碑のオベリスクが建てられました。楕円形の刻印のある銅板はロシアの歴史の中で至聖三者セルギイ大修道院が重要な役割を果たしたできごとを物語っています。第1にクリコヴァ平原の戦いで克肖者セルギイがロシア軍を助けたこと。第2にポーランドとリトアニアの軍隊によって修道院が16カ月包囲されたこと。第3にポーランドの侵略からの解放に修道院がロシアを助けたこと。第四に近衛兵の反乱の時にピョートル1世が救われたことです。

1872年聖堂広場の中央に十字架のついた大きな器のような建築物が備え付けられました。この器を通して小聖堂の井戸からの水を頂くことができます。ここで五旬節期の復活祭後の第4週の「中節の水曜日」と「命を施す泉」という名の神の母マリアのイコンの日に聖水式が行われます。


至聖三者大修道院マップ